現代的環境主義宣言 - Japanese

現代的環境主義宣言 - Japanese

地球は人間の惑星であるが、これは日々、ますます事実になっている。 人間は地球から造られたが、地球は人間の手によって再び造り変えられている。 地球科学者は、このことを、地球が新しい地質学的時代に入った、と表現するようになった。「人類世」、すなわち人間の時代である。

我々は、学者、科学者、運動家、および市民として、知識と技術が、叡智と共に利用されるならば、良き人類世、さらには偉大な人類世が訪れると確信している。良き人類世とは、人間が、ますます増大する社会的・経済的・技術的な能力を用いて、人々の生活をより良くし、気候を安定させ、自然を保護するものである。

理想の地球環境について、我々は2つの主張をする。第1は、長くにわたり理想とされてきたことそのものである:人類は、自然が地上でより多くの場所を占めるために、環境への影響を縮小しなければならない。第2に、我々は、「人間社会は、経済的・生態学的な崩壊を避けるため、自然に溶け込んで生きなければならない」という、もう1つの理想として掲げられきた主張については、これを拒絶する。

この2つの理想は、もはや両立できない。一般的な法則として、人類が生活と幸福を維持するために、自然生態系への依存を強めるであれば、自然生態系の保護も強化も不可能だからだ。

人間の多様な活動をより集中的にすること ― 特に農業、エネルギー採掘、林業、そして居住について―、によって、より土地の利用を少なくし、自然界への介入を小さく留めることは、人間の発展を環境影響から分離するための鍵である。 そのような変化を社会経済的・技術的に起こすことが経済発展と環境保護の両立の核心であり、人々は気候変動を軽減し、自然を保護して、世界的な貧困を削減することができる。

我々は、これまでは、各々が独立に論文を書いて活動してきた。だが、ここにきて、意見の広範な一致を見るようになり、活動の全体像がはっきりしてきた。我々は、自分自身を、現実的環境主義者であり、現代的環境主義者であると呼ぶ。我々は、人間が、その並みはずれた能力によって、良き人類世を創っていく、というビジョンを共有している。

1.

人類は、過去2世紀の間、飛躍的に繁栄した。 平均寿命は30年から70年まで増加した。かつ、多くの異なる環境で生きることが可能になり、人口は大幅に増大した。 人類はまた、伝染病の発病率を下げ症状を軽減することにおいても驚異的に成功した。異常気象や、他の災害に対しても、非常に強靭になった。

すべての形の暴力は大幅に衰えた。20世紀に戦争はあったし、また現代ではテロリズムも存在するが、統計的には、現在の一人当たりの暴力の水準は、歴史上で最も低いレベルにある。また人間は、独裁的な政府から、法の支配によって特徴づけられる自由主義・民主主義へと、地球規模で移行している。

個人的・経済的・政治的な自由は、世界中で広がり、今日では、普遍的な価値であるとおおむね認められている。 現代化は、女性を伝統的な性別役割から解放し、女性は産児数を自ら制御できるようになった。 今や、歴史的に見て未曽有の水準で、パーセンテージでも絶対数でも、 生命の危険・極貧・隷属状態から、人間は解放された。

さてその一方で、人間の繁栄は、人間以外の自然と野生生物に対して、莫大な負担を与えた。人間は地球の凍らない土地のおよそ半分を使っている。その大部分は牧草・農業・林業に利用されている。かつて森によって覆われていた土地の20パーセントは、こうして人間に使用されるようになった。 また、多くの哺乳類、両生類と鳥の生息数は、過去40年だけで、50パーセント以上減少した。このうち、 100以上の種が20世紀に絶滅した。1500年以降では785の種が絶滅した。 いまこの執筆時点で、北極白サイは僅か4匹しか生存していない。

ところで人間は、生物圏に完全に依存して生きている。ならば、人々が自分自身に大きな危害を与えることなく、自然生態系にこれだけの損害を与えつづけるということは、いったいどうしたら可能なのだろうか?

このパラドックスを説明するのは、技術が、自然に対する人類の依存を減らす、ということである。人間の技術は多岐にわたる。それには、狩猟採集に代わって農耕をすること、あるいは、今日のグローバル経済を支える技術もある。人間は、かつては生態系に全面的に依存して、かつそれを深刻に破壊してきた。だが、技術によって、生態系への依存を減らすことができた。

「成長の限界」ということは、1970年代から、頻繁に言われてきた。だが、そう遠くない将来において、人口と経済成長が、食糧や資源を生産する能力を追い越す、というその主張については、結局のところ、根拠は殆どなかった。

人間の消費には物理的な限界があるという主張は、単に理論的なものに過ぎず、現実とはほとんど関係がない。例えば、地球への太陽輻射の量は、もちろん有限ではあるが、人間の活動に意味があるほどの制約ではない。 人間の文明は、ウランまたはトリウム燃料サイクルから、あるいは、水素核融合から解放されるエネルギーによって、数世紀ないしは数千年にわたり栄えることができる。 また適切な管理をすれば、食糧のための農地が不足することも無い。 豊富な土地と無制限のエネルギーさえあれば、何等かの他の資源が不足し高価になっても、代替する資源はすぐに見つかる。

しかし、人間の幸福に対する、深刻な長期的環境破壊の脅威は残る。これには例えば人類による気候変動、成層圏のオゾン層破壊、海洋酸性化などがある。これらの危険はいまなお定量化するのは難しい。だが、これらが社会と生態系へ破滅的な影響をもたらすリスクがある、という点でにおいて証拠ははっきりしている。かりに破滅的な影響ではなく、緩やかな変化であったとして、かなりの人命・経済的コストおよび生態学的な損失に帰結しそうである。

ただし、世界の人口の多くは、いまだに、より差し迫った、地域的な環境問題による健康被害に苦しんでいる。 屋内および屋外の大気汚染によって、毎年、数100万人が早死にし、また病気になり続けている。 水質汚染と水系感染性も、同様な苦しみを引き起こしている。

2.

人間の環境への影響は、全体として増大し続けている。だが今日では、広範な長期トレンドとして、人間の福祉からの環境影響のデカップリング(分離)が観察される。

デカップリングは、相対的・絶対的の両方で起きる。 相対的なデカップリングとは、人間のもたらす環境影響が、経済成長よりも遅い速度で増大することを意味する。 すなわち、経済生産1単位あたり、より少ない環境への悪影響(例えば、森林破壊、生物の減少、汚染)が帰結する。 ただしこのとき、速度は遅くなるものの、全体的な環境影響は、まだ増加するかもしれない。絶対的な意味でのデカップリングとは、 環境影響の合計が、経済が成長し続けるにも拘わらず、ピークに達して、やがて減少することを指す。

デカップリングは、技術と人口の両方のトレンド、ないしはその組み合わせに起因する。

人口の成長率は、すでにピークに達した。 今日の人口増加率は、1970 年代の2.1パーセントという高い数値から下って、1年につき1パーセントである。 世界人口の半分以上にあたる国々の出生率は、現在、人口を減少させる水準にある。人口増加は今日、主に、より長い寿命と、より低い乳児死亡率に起因している。 現在のトレンドからすると、世界人口の規模が、今世紀中にピークに達し、さらには減少することは、大いにあり得る。

人口のトレンドは、都市化および経済の動態との密接不可分な関連がある。 いま、歴史において初めて、世界の人々の半分以上が都市に住んでいる。 2050年までに、70パーセントは、都市に住むことになる。21世紀の終わりまでにはこれは80パーセント以上になるかもしれない。 都市の特徴は高い人口密度と低い出生率である。

都市は地球の表面の 1~3パーセントを占めるに過ぎないが、40億人近くの居住地となっている。 そのように、都市は、本質的に、人類と自然のデカップリングを引き起こすものであり、デカップリングの象徴と言える。都市は、環境影響を減らしつつ、農村の経済よりも、はるかに効率的に、人類の物質的なニーズを充足する。

都市の成長は経済的・生態学的な利益をもたらすが、これは一方では、農業生産性の改善とも密接不可分である。農村の人口は都市へ向かったのは、 農業が、より土地・労働を効率的に使用するようになった結果である。米国において、土地を利用して就労していた農村人口は、1880年には全人口の約半分であったが、今日では、2パーセント未満にまで下がった。

農業の重労働から解放されて、巨大な人的資源が、他の努力のために解き放たれた。都市は農業における、長足の生産性進歩なしでは生まれ得なかった。対照的に、自給自足的な経済においては、現代的な生活は、実現不可能である。

生産性の改善は、農業生産高1単位あたりの労働を減らしただけでなく、土地利用の需要も減らした。 これは、最近だけはなく、長期的なトレンドである。農産物の反収の増加は、平均的な人に食事させるために必要な土地の面積を減らしてきた。5,000年前よりも、現代人がはるかに豊かな食事を楽しむという事実にもかかわらず、平均的にみて、一人当たりの土地利用の必要面積は、今日では非常に少なくなっている。 1960年代中頃に始まった半世紀の間において、農業の技術的進歩のおかげで、1人あたりの平均で見ると、作物および動物飼育に必要な土地の面積は2分の1になった。

農業活動が集中化したこと、および、燃料として木を使用しなくなったことから、世界の多くの地域では、森林が増加した。ニューイングランドにおいて、樹木で覆われていた面積は、 19世紀の終わりにはおよそ50パーセントであったが、今日ではおよそ80パーセントとなっている。 過去20年の間に、木材などの生産活動のために利用される土地の面積は、世界全体で5000万ヘクタール減少した。これはほぼフランスの大きさに匹敵する。 森林の減少から増加へと「森林のトランジション」がおきることは、出生率の減少や貧困減少などと同じくらい、人類の発展における明確な特徴のようだ。

多くの他の資源の人間による使用は、同じようにピークに達している。 平均的な食事のために必要とされる水の量は、過去の半世紀の間に、ほぼ25パーセント減少した。 窒素汚染については、いまなお富栄養化を引き起こし続け、大きなデッドゾーンがメキシコ湾の所々に存在し、また、 窒素汚染は世界全体では増えている。しかしながら、生産1単位につき使われる窒素の量は、先進国においては顕著に減少した。

有限である地球と無限の成長は相容れない、という懸念はしばしば表明される。しかし実際には、社会がより裕福になるにつれて、多くの物質への需要は飽和していくのかもしれない。 例えば肉の消費については、多くの裕福な国ですでにピークに達し、さらには、牛肉から、より少ない土地で生産できる、別のタンパク源へとシフトした。

物質的な商品を求める要求が満たされるにつれ、より高度に発達した経済においては、物質的ではない、サービスと知識への消費レベルが高くなり、それが経済活動に占めるシェアは大きくなる。 このような動きは、今日は開発途上国と呼ばれる諸国の経済において、より顕著になるのかもしれない。なぜなら、開発途上国は、より資源効率的なテクノロジーを用いるという、後発者の利益を享受できるからだ。

以上のトレンドを合わせると、土地使用の変化、過剰な開発、汚染などの、地球環境への人類の影響は、今世紀において、ピークに達し、かつ、減少に向かうことが可能である、と考えられる。 これらの、出現しつつある変化過程を理解して、さらに促進することによって、人間は、地球を再び自然に返し、また再び緑にすることが出来る。そしてこれは、発展途上国が、現代的な生活水準を達成し、物質的な貧困が無くなることと、両立できる。

3.

以上のように、デカップリングの経過を観察してくると、「初期の人類社会は、現代社会よりも、土地への影響が軽微であった」、という通説的な見方に対して、疑問が生じる。実際のところは、過去の社会が環境により少ない影響を及ぼした理由は、単に人口が非常に少なかったからだ。

非常に乏しい技術しかない初期の人類は、1人あたりで見るならば、今日よりもはるかに広い土地面積を必要としていた。わずか100万~200万人のしか北アメリカにはいなかったにも拘わらず、更新世後期には、大陸の大きな哺乳類は殆どが絶滅に追い込まれた。その間、大陸の全域にわたって森林は燃やされ、草地になった。完新世になっても人間による環境改変は続いた。地球の森林破壊の四分の三は、産業革命の前に起きたのだ。

人類の先祖が彼らのニーズを満たした技術は、一人当たりで見ると、環境影響が非常に大きいにも関わらず、非常に低い生活水準しか維持できなかった。「人間が大量に死んで人口が大幅減少する」といったような物騒な前提を置かない限り、これらの古い技術を使用して人間社会と自然を再び密接に結合させるような試みは、生態学的・人命的な大災害に終わるだろう。

今日、人々が過度に依存するがために、世界中の生態系が危機にさらされている。 燃料のために薪と炭に依存する人々は、森林を減少・劣化させる。食物のために野生動物を食べる人々は、その地域の哺乳類を絶滅させる。 利益を得るのが、地元の土着の人々か、あるいは外国の会社であるかに拘わらず、自然への人間の依存こそが、自然破壊という問題を引き起こしている。

反対に、現代的な技術は、生物圏に対する人間の影響を全体として減らす、真の機会をもたらす。より効率的に、自然の生態系のフローとサービスを利用できるからだ。かかる技術を活用することで、良い人類世を実現できる。

この現代化という変化過程は、人類を自然から解放してきたものであるが、もちろん、負の側面も持ち合わせる、両刃の剣である。化石燃料・機械と製造業・合成肥料・農薬、電化・現代的な輸送機関と通信技術によって、人口は増え、消費水準は高くなった。もしも技術が中世の暗黒時代から改善しなかったならば、人口増大すらも起きなかっただろう。

だがその一方で、人口が多くなり豊かなになった都市の人々が、遠く離れた場所の生態系に対してまで、より大きな依存をした、というのも事実である。 天然資源の採掘・採取は地球規模で行われるようになった。 だが、まさにそれと同じ技術によって、人々は、歴史上で最も資源・土地を効率的に利用して、食物・住居・暖房・照明・移動能力を確保することが可能になった。

人類の福祉を自然の破壊から分離するには、いま現れつつあるデカップリングという変化過程を、意識的に加速する必要がある。 いくつかの場合には、目的は、技術による代替物の開発となる。たとえば 森林伐採と屋内空気汚染を減らすには、現代的なエネルギー利用技術によって、木と炭を代替することが必要となる。

また別の場合には、人類の目的は、より効率よく、生産的に資源を使用することとなる。 たとえば、単位面積あたりの農業産出量を増やすことで、森や草原が農場に転換される傾向を逆転できる。 人間は、環境を、経済から解放していくべきだ。

都市化・農業の集中化・原子力・水産養殖・海水淡水化によっては、自然環境に対しての人間の需要を減らし、人間以外の種に、より多くの場所を残すことが出来る。 反対に、農村に住むこと・単位面積あたりの収量の少ない農業・再生可能エネルギー生産の多くは、一般的にいって、より多くの土地と資源を必要とするので、自然のために残される土地は少なくなってしまう。

こうしてみると、人間は、美的・精神的な理由のためだけでなく、単に、ニーズを満たすために必要でないからという理由だけでも、自然のための余地を残すころになりそうだ、という示唆が得られる。人間は、地球上で、経済的に有効利用を出来なかった土地については、大規模な介入はしないで、結果としてそれは自然のために残されてきた。それはすなわち、山・砂漠・極圏の森林、および他の辺鄙な土地である。

デカップリングによって、比較的自然のまま残っている土地に対しては、人間の環境影響をこれ以上及ぼすことなく、ピークアウトさせることができる。人間が使わないことで、自然は保全される。

4.

現代的なエネルギーをふんだんに利用できることは、人類の発展のための、そして、発展を自然からデカップルするための、重要な条件である。 安価なエネルギーが利用できることで、世界中の貧しい人々が、燃料のために森林を伐採するのを止めることができる。例えば肥料とトラクターのような、エネルギーを多く使用する技術の投入のおかげで、人類は、より少ない土地で、より多くの食物を産出できる。あるいは、エネルギーを用いて、廃水をリサイクルし、また海水を淡水化して、河川の水や帯水層の地下水を節約・保全できる。更に、エネルギーを用いれば鉱物を採掘して精製するよりも安く、金属とプラスチックをリサイクルできる。将来的には、現代的なエネルギーによって、大気からCO2を捕獲して、地球温暖化を止めることもできるかもしれない。

しかし、少なくとも過去3世紀の間、エネルギー供給の伸びは、CO2の大気中濃度の増大をもたらした。一方で、諸国はこの間、ゆっくりとであるが、脱炭素化もしてきた。 つまり、彼らの経済1単位あたりのCO2排出量は減少してきた。 しかしそれは、累積的なCO2排出量を、摂氏2度未満という地球温暖化の国際的な目標の下に確実にとどめるには、十分な速さではなかった。そこで、顕著に温暖化の影響を抑制するためには、人類は、既存の脱炭素化という変化過程を、いっそう速めなければならない。

しかし、これがどのようにして達成可能かについては、かなりの混乱がある。 発展途上国では、エネルギー消費の増大は、所得の上昇と生活水準の改善に強く相関している。 窒素のような多くの材料資源の投入や、木材・土地の投入はピークに達し始めている。だが、人間の発展において、エネルギーは中心的な位置を占めており、材料と人的資源の代役としても多様な役割がある。このことから、エネルギー消費は21世紀の全てとまではいかないまでも、その期間の多くを通して、増え続けるだろう。

このため、温暖化対策の必要性に対置する形で、数十億人が現代的な生活水準を獲得するための経済開発の必要性が提示されると、いつでも、結局は経済開発が温暖化対策よりも優先されることになる。 気候変動や、世界の生態系保全といった問題は、世界の大半の人々にとっては、重要かつ緊急の懸念などではない。バングラデシュの新しい石炭火力発電所は、大気汚染と、CO2の排出をもたらすかもしれないが、なによりも命を救う。 照明もなく、料理のために糞を燃やすしかない数百万人にとっては、電気と現代的な燃料は、それが何に由来し、新しい環境問題をもたらすとしても、よりよい人生へと導いてくれる。

意味がある温暖化対策とは、根本的には、技術的な挑戦課題である。たとえ世界全体で一人当たり消費に対して厳しい限度を設けたとしても、顕著な温暖化影響の抑制を達成するためには不十分である。根本的な技術的変化が無い限り、意味があり信頼できる温暖化影響抑制への道筋とは言えない。様々な団体が、彼らの好みの技術に依存する形で、多様な温暖化対策シナリオを描いている。だがどのシナリオにも共通するのは、大規模な排出削減は、技術の変化に依存している、ということである。

温暖化対策においてどの技術が用いられるべきかという点は、長く論争となってきた。一般的にいって、温暖化対策のため理論的なシナリオは、作者の技術的な好みと分析的仮定を反映し、あまりにも頻繁に、コスト・普及速度・規模についての真剣な検討が欠落している。

その一方で、エネルギー利用の変化の歴史は、社会がよりきれいなエネルギー源に向かうという、一貫したパターンを示す。すなわち、低い品質の燃料(すなわち、炭素含有量が多く、密度が低い)ものを、より高い品質のもの(すなわち、炭素含有量が少なく、密度が高い)燃料に代えることである。これが、あらゆる社会において脱炭素化が起きてきた理由である。これは将来において、どのように脱炭素化を加速するか、その方法を指し示すものでもある。それはすなわち、ゼロカーボンのエネルギー源によって駆動される世界に移行することである。ますます発展する人類の経済の原動力となるための、密度が高く、何十テラワットという巨大な規模にスケールアップして展開できる、エネルギー供給技術が必要となる。

再生可能エネルギーの大部分は、残念なことに、この条件を満たさない。世界経済の原動力となるためには、バイオ燃料や再生可能エネルギーのために必要な土地面積や環境影響の規模が莫大になり、「ゼロカーボンかつ自然環境を保全する」という健全な未来像を描くことができない。

例外として、地球上に大量に存在する原料から作り出される高効率な太陽電池がある。これは地球の表面の2、3パーセントを用いることで、多くの人々に、何十テラワットもの供給をする可能性がある。 現代の太陽利用技術がこの水準に至るには、大幅な技術革新が必要である。またこの太陽というエネルギー源の気まぐれに対処するためには、安いエネルギー貯蔵技術(バッテリー)の開発も必要である。

核分裂による原子力エネルギーは、現代経済のエネルギー需要のうち、全てとは言わないまでも、その大半を満たす能力をもつ、今日では唯一のゼロカーボン技術である。 しかし、社会的・経済的・制度的な課題があり、温暖化の顕著な抑制を成し遂げるのに必要な規模で普及することは、あまりありそうにない。原子力が、重要な温暖化対策技術として、その能力を完全に発揮するためには、より安全で、より安い新しい世代の技術が必要であろう。

長期的には、次世代の太陽利用、先進的な核分裂技術、および核融合技術は、気候安定化という国際目標と、自然からの人間の根本的なデカップリングにおいて、最も妥当な技術であると思われる。しかし、過去のエネルギー利用変化の歴史を見ると、そのような移行には時間がかかる。この移行の間、他のエネルギー技術が、社会的にも環境的にも、重要な便益をもたらす。 たとえば、水力発電ダムは、土地と水を多く使うとしても、貧しい国にとっては、CO2が少なく、安い電力源となる場合がある。 二酸化炭素回収・貯留技術を用いた化石燃料利用によって、現在の化石燃料およびバイオマス・エネルギーに比べて、相当な環境上の便益を得ることができる。

公平かつ持続可能な世界のエネルギー経済をもたらす、倫理的に優れかつ実際的な方法とは、安く、クリーンで、密度が高く、豊富なエネルギー源に、できる限り速く到達することである。このためには、かかるクリーン・エネルギー技術の開発と普及のための継続的な公衆の支持が必要である。それは、諸国において、また国際協力・国際競争の中で実施されるものであり、現代化と発展についての、より世界的かつ幅広いフレームワークに位置付けて実施すべきであろう。

5.

我々は、自然界への心からの愛と感情的な絆に依拠して、この文書を書いている。 自然に感謝し、探検し、理解しようとし、また開発することで、多くの人々が、自分自身の外に出て、偉大な進化の歴史につながることができる。 人々は、直接には野生を経験しなくても、心理的・精神的な側面から、野生が地球上に存在し続けることが重要と考える。

人間は、常にある程度、自然に対して物質的な依存をする。例え完全に世界を合成できるとしても、我々の多くは、人間の生存のために技術的には十分な水準を超えて、自然と離れずに、関わりあい、共に生き続けるほうを選ぶかもしれない。 デカップリングは、人類の自然への物質的な依存が、破壊的にならないで済む、という可能性を提供するにすぎない。

従って、自然への余地を残すための、意識的かつ加速したデカップリングが必要だという主張は、物質的または功利主義的なもの以上に、精神的・審美的なものである。 現在および将来の人類は、仮に非常に少ない生物多様性と乏しい野生の自然のもとでも、生き残り、物質的に成功することはできるだろう。だがこれは、我々が欲する世界ではないし、デカップリングを成し遂げるならば、避けることのできる世界である。

ここで我々は地上の風景・海の風景・生物圏、そして、何世紀・何千年にわたる人間の影響によって継続的に改変されてきた生態系をも、自然、あるいは野生の自然とさえ呼んでいる。自然保護の科学・生物多様性・複雑性・土着性といった概念は、いずれも役に立つ。しかしながら、それだけでは、どの景観を、どのように保存するべきかを決めることは出来ない。

ほとんどの場合、人間が改変する前の、自然が帰るべき、手つかずの自然(ベースライン)なるものを唯一つに決めることは不可能である。たとえば、より初期の状態(土着性)に似せるために景観を元に戻す努力は、最近到着した種(侵入種)の駆除を必要とするかもしない。これはその地域の生物多様性を減じることになるかもしれない。あるいは他の状況においては、地域住民は、むしろ土着性を犠牲にして、珍しい品種の導入を好むかもしれず、または新しい品種を導入して地域の生物多様性を高めることを選ぶかもしれない。

非功利的な価値のために景観を保存するという努力が意識的になされるならば、これは必然的に、人為的な選択となる。のみならず、すべての環境保護運動は、基本的に、人為的なものである。 自然の野生を保存するというのも、それをブルドーザーでならしてしまうのと全く同様に、人間の好みに依る、人為的な選択である。人間は、特定の地域、景観、生きものについて、それに価値があると市民に信じさせることによって、自然保護を図っている。その一方では、 他の人々は、河川流域への植林・礁・沼地と湿地等の生態系を管理利用することで、水質浄化や洪水防護などのサービスを得る方を選ぶかもしれない。これらの自然を利用したシステムは、水処理施設・堤防・土手よりも高価になる場合もあるだろう。何れにせよ、人々がどのような選択するかは様々であり、唯一の正答というものは存在しない。

環境は、多様な地域的・歴史的・文化的な選択によって形作られる。我々は、土地を節約するための農業活動の集中化が、野生の自然を保護するための核心であると信じている。しかしその一方で、我々は、多くの国々では、農地を草原・荒地・森林などの形にして野生の自然に帰すよりも、農業が形作る田園景観の範囲内で野生生物を保護するという「土地共有」を選択し続ける、ということを理解している。 デカップリングが基礎的な生活必需品を供給するための景観や生態系への圧力を減らす一方で、土地所有者・地域・政府は、どのような審美的・経済目的に余った土地を利用するのか、改めて意思決定しなければならない。

加速したデカップリングだけでは、野生の自然が確実に保全されるわけではない。審美的・精神的な理由から野生の自然が必要なのであれば、それを政策に反映しなければならない。人類の物質上のニーズを自然から分離するのみならず、野生・生物多様性・美しい景観を保全するためには、人間と自然との感情的な絆が必要である。

6.

我々は、活発かつ意識的にデカップリングを加速する必要と、それを実現する人間の能力を信じている。 技術進歩は努力せずに得られるものではない。環境影響を経済活動からデカップリングすることは、単に、市場経済がもたらす技術革新と、資源の希少性への反応の関数として、受動的にもたらされるのではない。市場または価格シグナルが存在する遥か以前から、技術を用いた自然環境の改変の歴史は始まった。需要の増大・資源の不足・創意工夫、そして幸運のおかげで、人間は数千年にわたり、世界を再創造して繁栄してきた。

また一方で、環境問題の技術的な解決策は、社会・経済・政治などの、より幅広い文脈で検討されなければならない。 我々は、ドイツ・日本などの国、カリフォルニアなどの州が原子力発電所を止めることは、エネルギーの脱炭素化を逆転させるものであり、経済を化石燃料とバイオマスに再び依存させるので、逆効果であると考える。しかしながら、これらの意思決定の例は、技術は遠く離れた国際的機関で選択されるのではなく、むしろ国あるいは地域の制度および文化に依存して選択されるという事実を明らかにしている。

あまりに頻繁に、現代化という言葉は、その支持者・反対者の何れによっても、資本主義・企業による社会支配・自由放任主義等と混同されてきた。我々は、そのような矮小化された意味で言っているのではない。 我々が現代化と言っているのは、人類の社会的・経済的・政治的・技術的な長期的進化であり、それは物質的な福祉・公衆衛生・資源生産性・経済統合・インフラの普及・個人の自由の、大幅な改善を図ることである。

現代化によって、貧困・農業の重労働・女性と子供の隷属状態・少数民族の抑圧・気まぐれで任意に統治される社会から、人々は絶えず解放されてきた。現代化された社会・技術システムを伴う高い資源生産性は、人間社会がより少ない資源投入と、環境へのより少ない影響で、人間のニーズを満たすことを可能にした。 より生産的な経済はより裕福な経済であり、非経済的な便益に対して、経済余剰を多く配分できる。それにより、人間はより健康になり、より大きな自由と機会を得て、芸術・文化・自然保護等のニーズをよりよく満たすことができる。

今日においてもっとも発達した経済においてさえ、現代化という変化過程は、いまだ終了からは程遠い状態である。 物質の消費は、ちょうど今、最も裕福な社会でピークに達し始めただけである。 人間の福祉を環境影響からデカップリングするためには、技術進歩の継続への確固とした意思は勿論のこと、それに歩調を揃える形で、社会・経済・政治を継続的な進化させなければならない。

技術進歩の加速のためには、民間企業・市場・市民社会・国の、活発な参加が必要である。 我々は、1950年代の計画主義は誤りであり、繰り返すべきではないと考える。だが一方で、環境問題に対処し加速度的な技術革新を進めるためには、やはり政府の役割は重要と考える。それには、技術の研究開発、技術の導入・普及のための補助金などの措置、および環境リスクを減らすための規制が含まれる。そして、技術革新と技術移転に関する国際協力は、農業とエネルギーの分野では、本質的に重要である。

7.

我々は、人類が繁栄し、かつ生態系が繁栄した地球は、実現可能であるのみならず、両者が不可分であると信じる。 それは、すでに現実において進行中のデカップリングという変化にコミットすることで達成できる。このように、我々は人間の能力と将来について楽観的に見ている。

我々は、この宣言が、21世紀において環境を保全する方法についての、議論の質・方向性の改善に寄与することを望む。あまりに頻繁に、環境問題に関する議論は両極端に尖鋭化し、独断的な教義によって麻痺し、狭量な振る舞いが横行してきた。我々は民主主義・寛容性・多元主義の原則について、これら自身の価値を信じている。のみならず、これら諸原則は偉大な人類世を達成するための鍵でもあると信じる。我々は、生物多様性に満ち繁栄する地球のもとで、普遍的な人間の尊厳を実現する最良の方法は何であるかという対話において、この文書が役立つことを願っている。

日本語訳 杉山大志